大江健三郎が語る夏目漱石の『こころ』なのだが大江健三郎にいわせれば小説は知識人が読むものという認識があって純文学=小説という考えはぶれそうにない。

 大江健三郎といえばよしもとばななや村上春樹のような作家はサブカルチャーの作品であって文学ではないという。

 最も大江健三郎も吉本ばななや村上春樹の作品を否定するわけでもないのだが、やはり本流は純文学なのだろう。

 「こころ」を読んだのは高校2年生の時。


 友人のことを考えていたので、感銘を受けました。次はもう40歳でしたが、先生の遺書の言葉「記憶して下さい。私はこんな風にして生きて来たのです」を引用してエッセーを書きました。


 「こころ」は知識人の語りかけの形で、新しい文体を作っています。特別なルビに注意して音読すると東京弁のリズムがあり、生き生きした効果もあげている。時代を感じさせる風格はありますが、今現在の手紙として読めます。


 最後の事件を物語った後、さらにスピードと強さを保って、十分に書き終え得るのが作家の実力です。それを「明暗」とともに、よく表現していると思う。


 漱石が生きた「明治の精神」 大江健三郎さんに聞く

 大江健三郎も40歳を過ぎた後に夏目漱石を再読して魅力を発見したという。

 明治時代の知識人の考えに対して鋭い視点や読み方をする大江健三郎だと思うのであるが、今の大江健三郎は夏目漱石の『明暗』の則天去私の心境というか悟りの境地に到達したのではあるまいか?

 人生には明るい時代もあれば、暗い時代もある・・・ということは大江健三郎も自分自身の体験で味わっているわけで私自身も考えさせられるものがある。

 芥川賞で東大卒の流行作家になった大江健三郎も戦後民主主義の代弁者となって左翼的な政治的発言を繰り返して『セブンティーン』の一件で右翼団体から猛抗議。

 その後、障がい者の息子の大江光の誕生で人生は奈落の底に沈みこむような苦しみも味わうが、川端康成に続いて2人目のノーベル文学賞を受賞した日本人でもある。

 一旦、小説家をやめる宣言をした大江健三郎であるが、最近はレイトワークと称して再び小説の創作や定義集などの評論を書き始めた大江健三郎。

 私個人の意見では大江健三郎の人生こそ夏目漱石の『明暗』のような人生の大曼荼羅を具現をしているのではないか?という思いも少なからずある。

 大江健三郎も40歳を過ぎてから夏目漱石の作品を読み直してみた、というので難解な大江健三郎作品を40歳を過ぎてから再読というのもいいのではないだろうか?