大江健三郎は悪文作家の批判がついて回る。

 作家で大江健三郎は悪文家で、文言評論家で小林秀雄もまた悪文の名手で大江と小林が嫌い!と露骨に嫌悪感を示す人も多い。

 とはいうものの学生時代に大江健三郎の『死者の奢り』や『飼育』が好きで『個人的な体験』や『万延元年のフットボール』まではついていけたので好きだったという人は多い。

 初めから悪文を書く知識ひけらかしのぺダントリーな衒学趣味の難解な小説を書く大江健三郎ではなかったことも自分は知っている。

学生時代には大江は神様だった。

当時、大江を語らない学生はほとんどいなかったくらいに、バイブルのような存在だったと思う。
ところが、「万延元年のフットボール」くらいからなんだか読みにくいなあという感触が先に来て、しんどい小説になったと記憶している。

参議院候補になった大先生の本を編集した時、校正のたびに前より多くの書き込みが帰ってくるので、「先生、大江じゃないんだからこんなに書き換えられると いつまでも終わりませんよ!」と抗議したことがある。先生は「へえ、大江さんはそんなに校正のたびに書き換えるの」と、うれしそうに微笑んだことがある。 何か勘違いしているのではと、少しばかりむっとしたのだが・・・。

大江夫人の証言によると、大江の作品の最初の読者は夫人だそうで、「お父さん、一度で良いから最初に書いた原稿のままで本にしたらどうですか。手が入るたびに読みにくくなっていくような気がするんですけど」と言ったことがあるとか。

大江の文章が下手な翻訳家のつぎはぎだらけの文章になっているのは、書き込み書き足しが多すぎる結果ではないかという我輩の予測は夫人の証言で裏づけられたと一人合点したものである。

しかし今でも大江は私にとって神様である。
たぶん今度の本も近いうちに手にすることになるだろう。

悪文のノーベル賞作家

 始めに大江健三郎の『死者の奢り』の哲学的な状況とか『飼育』の黒人兵の異物排除の視線が好きで大江健三郎は現代作家で天才、と思った人は『万延元年のフットボール』までは大江作品の愛読者であることは認めてもいい。

 しかし、『我が自ら涙をぬぐいたまう日』とか『同時代ゲーム』になると大江健三郎はきわめて難解な構造主義とかポスト構造主義ばかり考えて知的なポースを延々と繰り返して大衆に分からない独りよがりの作品を書く難解な作家で嫌いになった、とかついていけない、という批判も出たのは事実。

 大江健三郎も悪文を書く作家でかつての熱心な読者も離れてしまい、後期の作品に関してはほとんど読まないという人もいて政治的なエッセイか、初期作品こそ大江健三郎の真骨頂という人も多い。

 最も私も作家はいつも名作や傑作も書くわけではなく、大江健三郎も作品に成功作と失敗作があることは否定できない。

 夏目漱石だって成功作と失敗作があるように大江健三郎もまた同じように失敗作や成功作もあるとは思う。

 最近の大江健三郎のレイト・ワークになると『水死』にしても『宙返り』にしてもかつての『同時代ゲーム』のような悪文はかなり少なくなって大江健三郎もなるべく大衆のニーズに調和しようという文体の変化もあるのではないだろうか?

 大江健三郎を初めから読んでいて愛読者だった人も大江の悪文は意識していて投げ出したくなるようなこともあるらしいが、もちろん全部の作品を肯定しているわけではないだろう。

 大江健三郎は悪文作家でもあるが、膨大な作品から優れた作品で自分の納得がいく作品を選ぶことが読者に課せられた課題でもあるらしい。

 知識人向けの読書となれば安易にすぐに大江作品が分かる、ということはなくて息の長い時間と経験もいるのではないか?