最近、大江健三郎を暴論のように酷評して国賊・大江健三郎は日本人として許せない!という批判があふれ返っているが保守的で大江健三郎の作品が好きだった、という人も最近の保守言論の劣化には呆れているのではあるまいか?

 自分もこのブログを始めた理由は最近の大江健三郎を酷評する保守右翼言論の低劣なあり方にとても言論とはいえたものではない、という山崎行太郎の一文も知ったからでもある。


p1* 大江健三郎は嫌いではない。いや、僕の文学の原点にあるのが大江健三郎だ。

僕は、三島由紀夫でも石原慎太郎でもなく、大江健三郎を読むことから文学というものを始めた。高校時代、生物の先生(民俗学者としても有名な小野重郎先生…)に「開高健、大江健三郎」を教えられたのである。

その時に読んだ大江健三郎の小説が僕の人生を変えた。

ところで僕は、大江健三郎の政治的スタンスには賛成ではない。しかし左翼全滅のご時世に、孤軍奮闘する姿は尊敬に値すると思う。

僕は、今、流行りの「保守思想家」たちよりも、この頑固一徹の「左翼思想家」の方を高く評価する。思想家や文学者というものはこうでなければ…。元・マルクス主義左翼青年の谷沢永一に『こんな日本に誰がした』という大江健三郎を批判・罵倒したクズ本がある。

谷沢永一が「クズ思想家」であることを証明した駄本である。それにしても「転向保守」の谷沢永一のようなクズ思想家をありがたがる昨今の保守少年よ、わかったか、ワシは、谷沢永一より大江健三郎を尊敬しているぞ。

 大江健三郎も困ったものだが…。まあ、いいか。

 保守評論家の佐藤優も山崎行太郎のブログを高く評価しているが、自分も同じ意見だ。


「佐藤さん、どういうブログを読んでいますか」という質問をよく受ける。そのたびに私が一番にあげるのが、文藝評論家の山崎行太郎氏(埼玉大学講師)のブログ「毒蛇山荘日記(http://d.hatena.ne.jp/dokuhebiniki)」 だ。このブログから、筆者は多くのヒントや知的刺激を受けている。

山崎氏は、右翼、保守派の論客である。しかし、ステレオタイプの言説に流れない。例え ば、沖縄の集団自決問題を巡る裁判についても、大江健三郎氏の見解が正しいという立場を表明する。

これは、右翼、保守陣営の中では勇気を必要とすること だ。

しかし、山崎氏は大江氏におもねっているわけではない。大江氏の『沖縄ノート』(岩波新書)とを丹念に読んだ上で、自らの立場を表明する。

ここで、山崎氏は、「誰かの主張を批判する場合は、そのテキストをきちんと読んで、相手の論理を正確に理解することが前提になります」というごく当たり前の主張を し、それを実践している。

 【佐藤優の眼光紙背】山崎行太郎氏のブログ”毒蛇山荘日記”が面白い


 最も佐藤優も山崎行太郎も左翼陣営からは批判もあるだろうが、大江健三郎を絶対悪の国賊作家であり、日本人から排除しなければならない敵であるという決めつけこそが保守思想や愛国心を劣化させるではないか?という批判は正しい。

 考えてもみれば大江健三郎がいくら左翼的な発言をして原発批判や日本の平和憲法を擁護して批判を浴びようが優れた小説は作品で残るわけであって『死者の奢り』や『万延元年のフットボール』の文学的な価値はいささかも減少しないと思う。

 三島由紀夫が憲法改正を唱えて市ヶ谷駐屯地で自決しても『豊饒の海』は名作であって政治的な右翼的なパフォーマンスは嫌いでも作品は価値があるように大江健三郎のノーベル賞作家という価値は揺らぐわけでもない。

<独学者とは、具体的にどんなものなのだろうか。

≪ところで、小説を書こう、あるいは批評を書こうと考えている人にとっては、どうも教室での勉強は役に立たないのではないか。それを自分で役に立つように しなければならないと私は考えます。

それを自分で役に立つようにしなければならないと私は考えています。こういう人たちには、大学を卒業してから、ひとり で自分を小説家、批評家にする長い日々が続くんですからね。

そのために、私は、大学の先生が、アカデミズムの研究者の育成とはまた別に、独学ということに 対する感覚を持っている人だったらと思います。

自分はひとりで学問をするんだ、自分のやり方でひとり文学を学び続けていくんだ。それを一生やっていく。そ れを通じてつうじて小説を書く、演劇をつくる、映画をつくる人間になる修業を自分はするんだと覚悟することを助ける人。≫

 山崎行太郎は大江健三郎の作品を独学を通してしっかり理解しているのだろう。

 目先の利益で大江健三郎は反日作家で日本を貶めるだけの能無しであって偽善者であると軽佻浮薄なブログの発言を繰り返せばそれは言論とはいえないし、作家論としても質の低い駄文であって全く評価してはいけない、ことを痛烈に喝破していると思う。

 私は大江健三郎の作品を難解な悪文とか政治的な発言を批判する権利もあるが、低劣な暴論で大江健三郎こそ日本人で最も許せない売国奴作家であって国民の敵である、と決め付ける発言では間違いだと思っているのも感じていて今の社会の大江健三郎批判は昔のノーベル賞の時代より劣化した言論が多いのはいただけない。

 最も大江健三郎がノーベル文学賞という象徴があるので批判の対象として日教組のように明確な敵と批判しやすいのだろうが、ある程度、しっかり大江作品を読み込んだ上で建設的な批判を繰り返さないと愚論の積み重ねになってしまうのではないか?

 自分は山崎行太郎は保守評論家の江藤淳の再来のように思ってきちんと評価していくことは大切なことだと思ってもいるし、山崎行太郎のブログの発言は嫌いではない。

 大江健三郎を批判するにしても道理ある保守言論の繰り返しできちんとしておかないと保守言論というか日本のためにならないし、日本の未来もまた危ういとも思う。