大江健三郎が文化勲章を辞退して日本の皇室を侮辱して愛国心を貶めた事件が今も激しい批判を巻き起こしていると私は思う。

 ノーベル文学賞は名誉として受け取る大江健三郎が自分は皇居に入って天皇陛下から文化勲章を受け取るのは戦後民主主義の精神に反するから国賊・大江健三郎めが!という批判は今も続いている。

 最近は大江健三郎といえば何かといえばノーベル賞作家の偏見というかバイアスがでて些細な発言でも反日日本人でけしからん!という批判が極大化しているのではないか?

 私なりに思うのだが、もちろん大江健三郎が文化勲章の一件で皇室を否定して日本の国益というか大衆の神経を逆なでするような行為に対してよくない、という批判はもちろんあっていい、と思う。

 とはいうものの大江健三郎が作家でいい作品を書いてきたことは事実だろう。

 私は文化勲章の一件で大江健三郎が自分の信条という理由から受賞を拒否したことは国益に反するという批判もでるのはやもうえないし、批判する権利はあると信じる。

 しかし、大江健三郎が全部、極悪人というかこれぞ日本を貶めて悪口をいいふらす陳腐な国賊売国奴であり、反日日本人の大悪魔という批判では大江健三郎は理解できないのではあるまいか?

 最も国益という言葉も大江健三郎は大嫌いなのだろうが、昔は大江健三郎の文化勲章を辞退した一件に関して保守的な言論人でも大江健三郎の態度はよくない、と批判していたが、作品は作品でいい小説は多く『死者の奢り』や『個人的な体験』や『万延元年のフットボール』は傑作ではないか?と冷静に大江健三郎を評価する人も多かったように思う。

 しかし、最近はどうも冷静に大江健三郎を批判する保守派が絶滅してしまったと思う。

 昔の江藤淳のような大江健三郎批判より、谷沢永一を更に劣化したような批判で大江健三郎こそ日本を貶める元凶で疫病神だ、とわめき散らすような批判が多い。残念なことだ。

 一種の保守派で大江健三郎の政治的発言や文化勲章の事件も大江の態度は日本の国益を考えると大衆に敵を作る言動であることは否定しないという批判は私はあって当然だと思う。

 しかし、あくまで大江健三郎は政治的な発言で左翼とか日本のナショナリズムに対して批判こそするが本質は作家であり、小説家である。

 大江健三郎は確かに政治的には反日作家の言論人であるのだろうが、小説家としての大江健三郎まで国賊であって日本を蝕む売国奴であり、憎むべき敵は大江健三郎では批判としても幼稚でお粗末だ。 

 最近の大江健三郎批判といえばノーベル賞作家の大江健三郎は文化勲章を否定して日本と皇室を貶めて反日と反原発ばかりを繰り返す左翼言論人であり、まず、大江が始めに許せない!というパターンから始まっているのではないか?

 ある程度、大江健三郎の政治的発言は容認できないが、作品は評価できるという保守派だった人も最近の大江健三郎批判がネットで執拗に攻撃的になっているのはいけないのではないか?という苛立ちも感じているのではないか?

 作家としての大江健三郎を忘れて政治的な発言で反日分子の大江健三郎は許すな!では本質を見失っていて保守の劣化という批判もあるのは当然だと私は思う。 

 大江健三郎が確かに文化勲章を否定した事件は日本人の怒りも買った事件でもあるのだが、作品は作品で評価されていくと私は思う。