作家の曾野綾子の劣化が『沖縄ノート』が一気に噴出した事件で右翼保守派もこのままではいけないという思いが強くもなっているらしい。

 どう考えても曾野綾子の『沖縄ノート』の一連の騒動は泥縄というか作家の墓穴というか呆れた行動でしかないのではないか?

 佐高信も曾野綾子に『沖縄ノート』の件で建設的な批判というか、何が悪いか?を答えるべきで対談を申し込むと自分は絶対に正しいのだから佐高信はストーカーのような評論家であって私は応じる義務なし!で問題の核心から逃げる・・・という不誠実な態度であった。


佐高 言論活動とは常に真剣勝負であって、命懸けの戦いです。

私も人を批判する以上、自分を批判する人から取材を申し 込まれても、それを断ることはしません。

それが言論で立つ者の最低限のルールでしょう。
曽野氏には「ストーカー」とも対話するような逞しさを持ってもらい たいものです。

論争なき保守は滅びよ  佐高信×山崎行太郎

 
 大江健三郎の『沖縄ノート』の裁判のことの始まりは作家の曾野綾子が赤松嘉次大尉らを集団自決を命じた屠殺者であるというのが名誉毀損だということから始まった。

 加えて曾野綾子が大江健三郎が『沖縄ノート』でいっていた集団自決などはないので事実誤認でしかないので大江健三郎は嘘つきで現地も取材しないで勝手に作家的なフィクションでありもしないことを『沖縄ノート』で書いていて間違っているという。

 曾野綾子は沖縄で現地に出向いて調査したが、大江健三郎は沖縄を取材しないで勝手に書籍の知識で『沖縄ノート』に書いた記事で赤松嘉次大尉は屠殺者と決め付けている大江健三郎は作家に値しないし、名誉毀損をしているから反日作家だと決めつけたいという。

 大江健三郎「沖縄ノート」名誉毀損裁判巡る曾野綾子の低能ぶり、文学者失格ぶりを鋭く指摘する山崎行太郎ブログが面白い

 曾野綾子も愚かで救いようもないが、池田信夫がブログで性懲りもなく、駄文で大江健三郎は嘘つきとアクセス欲しさに扇動して、呉智英のような自称・封建主義者というかエセ保守が屠殺者という大江健三郎は部落差別を助長する悪質な差別者であって・・・という因縁のようなイチャモンをつけてこれまたバカ騒ぎした情けない事件である。


想像力の欠如した言論人

山崎 曽野氏の大江健三郎批判は、「大江は集団自決のあった島に行かずに、文献を読んだだけで本を書いている。自分は実際に島に行って現地の人たちの話を聞いてきた」といったものです。
 
 しかし、島に一週間滞在したからといって、集団自決の真実が見えてくるわけではありません。現地に行けば現地のことがわかるといった発想はいかにも安易です。

 大江氏はあらゆる文献を読み込み、自らの作家的センスで分析していったわけですが、むしろそちらの方が真実を映し出している可能性だってあるわけです。

佐高 それこそ文学の役割ですね。カメラじゃないんだから、映っていればいいというものではない。


 曾野綾子も大江健三郎は日本を貶める作家で『沖縄ノート』の粗探しでもして裁判に訴えれば自分もちやほやされると思っていたのか、ノーベル賞作家に自分が劣っていることでコンプレックスがあったのか?は知らないがともかく批判というか因縁のような『沖縄ノート』事件であった。

 曾野綾子にいわせれば自分は現地の沖縄で実際に取材して正しいことをいっていて、大江健三郎の方が『沖縄ノート』を書く際に現地を取材しないで単に赤松嘉次を屠殺者呼ばわりしていることが間違いみたいなことをいいたいらしいが、このような発言こそ詭弁であって作為的な嘘の論理だろう。

 私は曾野綾子も愚かだが呉智英とか池田信夫もまた大醜態でますます保守の劣化と批判されてもおかしくない事件であったとしか思えないし、呆れてものがいえないというのはこのことだ。

 もっと呆れるのは曾野綾子や呉智英とか池田信夫ではなくて大江健三郎の『沖縄ノート』を叩けばいい!と思い込んでいて付和雷同のように騒いでいるネトウヨのような自称・愛国者の連中だろう。

 そもそも大江健三郎を国賊とか反日よばわりしたいネトウヨは実は曾野綾子なんてどうでもいいので単にネットでバカ騒ぎしたいだけなのだろう。

 こういう発言は保守でも右翼でも愛国者でもなんでもないし、フーリガンのようなものでしかない。


 もちろん曾野綾子も『沖縄ノート』で愚かな愚考で自滅もしたが、もっと愚かだったのは曾野綾子の発言に群がって便乗でネットで英雄になりたがったネトウヨの自称・愛国者なのだろう。

 結局、裁判で大江健三郎と岩波書店が勝訴して曾野綾子という偽キリスト教の右翼作家の命脈というか作家の信用を失い、逆に大江健三郎の方が正しい!という墓穴を掘るだけの情けない事件ではあったのではないか?
 
 曾野綾子も自分の非を認めないと作家生命の命取りになるだろうし、大江健三郎を喜ばせるだけにしかならないだろう。

 曾野綾子の『沖縄ノート』事件のような保守右翼の劣化を示す事件に比べるとまだ大江健三郎を批判していた江藤淳の時代の方が良質で示唆に富む時代であったとしか私には思えない。