大江健三郎はすべからく戦後民主主義にこだわる作家である。

 大江健三郎は天皇制こそが日本を劣化している元凶だと執拗に政治的発言を繰り返している。文化勲章を皇居でもらうのは潔しとせず、『セブンティーン』の第2部の『政治少年死す』は今も絶版。

 大江健三郎は日の丸・君が代・天皇制は日教組や日本共産党のように拒否したいのだろう。

 大江健三郎の反日的な態度は何かといえば国賊・大江健三郎!で批判が耐えないし、ブログでもノーベル文学賞を返上するのが筋である、という批判も多い。

 反面、大江健三郎は戦後民主主義に対する平和憲法9条に関しては日本人は擁護すべきだ、といい続けているのはどういうことなのか?

 一方では戦後民主主義の象徴天皇制は廃止しべきだ、いい、片一方では今の日本国憲法は改正すべきではないという。

 それこそ『あいまいな日本の私』な大江健三郎の憲法論なのだが矛盾もしていてこだわりが抜けきれない作家でもあるようだ。

 大江健三郎の作家の起点に四国の閉ざされた田舎の森の伝説のようなエコロジーな想像力はあるのだが、もう一つ、見落としてはならないのが象徴天皇制と平和憲法という水と油の関係があるのだろう、とは思う。

 大江健三郎のいたく難解な『同時代ゲーム』で『壊す人』というトリックスターの話が出てきて一体、大江健三郎は何をいいたいのか?と思って余りの悪文のいやらしさに投げ出したくなるのだが、実は『同時代ゲーム』の『壊す人』の構想も大江健三郎のトリックスター的な役割を小説に投影したものなのだろう。

 大江健三郎自身も自分をトリックスターのような存在と強く意識しているのは確実なのだろうな、とは思うのだが。

 大江健三郎が日本のナショナリズムを批判することは日本を貶める破壊者であって壊す人の態度でもあるが、反面、憲法第9条を守れ!という意見は新しい人のように創る人なのだろう。

 大江健三郎の終戦後の体験で『遅れてきた青年』の話でも戦前は天皇陛下万歳!と軍国主義に熱狂した教師が、戦後、勝手に民主主義といい出して責任を取らなかった無責任体制を暗い文章で批判しているのだが、大江健三郎は日本の戦後民主主義に非常にこだわりのある作家でもあり続けるらしい。

 逆に戦後民主主義への執拗なこだわりがあるから大江健三郎という作家も小説や政治的な発言を繰り返すことができたのだろう。

 大江健三郎の『同時代ゲーム』も文化人類学者の山口昌男の『道化』から構想も得ているというが、阿部謹也の『ハーメルンの笛吹き男』を日本で作家で演じているのが他ならぬ大江健三郎でもある。

 右翼や保守派からは国賊は大江健三郎なり!と発言するたびに批判をあびながらも、大江健三郎は自分をトリックスターのようなものだと意識しながら難しく、難解な構造主義とかポストモダンな神話学とか文化人類学のテキストというか知識人向けの小説を書いたパイオニアでもあるのだが。

 大江健三郎を理解するとなればトリックスターのようなピエロというか道化師のような存在だということを知っていれば難しくなりすぎた『同時代ゲーム』から先の小説も少しは理解できるようにもなりそうだ。

 とはいうものの文化人類学的なトリックスターの考えは非常に難しい。

 一方は破壊者でもあるが、一方は建設者の矛盾では大江健三郎の小説を理解するまでに時間がかかってしまうのは仕方がないのかもしれない。