福田恒存といえば最近、保守右翼評論家で再評価もされてもいるようだ。

 旧かな使いで大江健三郎の矛盾を撃つ!ということで大江健三郎の憲法観は実は護憲ではなくて、改憲論者であることを見抜いていた。

 もちろん福田恒存がいう大江健三郎の改憲というのは憲法9条のことではなくて、天皇制のことである。

 大江健三郎は戦後民主主義を擁護して護憲のポーズをしているが、実は改憲論者であり、日本を貶める反日ぶりもあることを暴露・・・といいたいらしい。
 
 福田恒存といえば気になるのが『人間・この劇的なるもの』で人生は絶対に思い通りにはならないものだ!と喝破していることだ。

 福田恒存は大江健三郎は実は天皇制を廃止しようとしているどう考えても日本国民にいわせれば絶対、思い通りにならない馬鹿げたことをしているとしか思っていなかったらしい。

 大江本人は本気になって思い通りにして天皇制を廃止していこうといいたいらしいが、大江健三郎の態度は精神的に未熟な幼稚な人間である、と批判したいのだろう。

人生は絶対に思い通りにはならない。

いま絶対という言葉を使ったが、絶対に思い通りにならないならば、
それら不如意をわれわれに与えたもう大きなものが絶対にあるのではないか。

思い通りにならないことを深く味わうことで大きなものを少しでも感得できないか。
人生訓のような物言いをすれば、人生は思い通りにならないからおもしろい。

では、なぜ人生はうまくいかないのか。他人がいるからである。

われわれはお互いを鏡として自分がどういう存在か知ろうとしている。
だが、それではいつまで経っても自分はよくわからない。

大きなものを鏡として自分を見たら、もっと自分が見えてくるのではないか。
大きなものは目に見えないからそんなことは無理だと言うかもしれないが、
われわれは見えないものでも信じることはできるのではないか。

百人の盲人が巨大なゾウのあちこちを触ったというあの仏教説話のように、
われわれには見えていない大きなものがあるとは考えられないか。

いや、考えてはならぬ。大きなものがあると信じられないだろうか。

「人間・この劇的なるもの」(福田恆存/新潮文庫)

 福田恒存は「当用憲法論」で大江健三郎がいくら天皇制を否定して象徴天皇制を廃止しようと反日にいそしんでも無駄であり、愚かな売国奴という道化師を演じているのではないか?と手厳しい。

 加えて大江健三郎の護憲というのは嘘であって、本心は護憲の仮面をかぶった憲法改正論者で天皇制を廃止して日本を人民共和国にしたいのだろう、ということを知っていて、きっぱり大江健三郎の正体を暴露しているのは鋭いといえば鋭い。

 断言しても良い。現行憲法が国民の上に定着する時代など永遠に来る筈はありません。

 第一に、「護憲派」を自称する人達が、現行憲法を信用してをらず、事実、守つてさへもゐない。大江氏は覚えているでせう、座談会で私が、「あなたの護憲は第九条の完全武装抛棄だけではなく、憲法全体を擁護したいのか」と訊ねた時、氏は「然り」と答へた、続けて私が「では、あなたは天皇を貴方がたの象徴と考へるか。

 さういう風に行動するか」と反問したら、一寸考えてから「さうは考えられない」と答へた。記録ではその部分が抜けてをりますが、私はさう記憶しております。

 或いは氏が黙して答へなかつたので、それを否の意思表示と受け取つたのか、いづれにせよ改めて問ひ直しても恐らく氏の良心は否と答へるに違ひ無い。

 が、それでは言葉の真の意味における護憲にはなりません。

 大江氏は憲法を憲法なるが故に認めてゐるのではない、憲法の或る部分を認めてゐるに過ぎず、また憲法を戦争と人権の防波堤として認めてゐるに過ぎないのです。

 九条の会と、大江健三郎の欺瞞

 福田恒存といえば韓国の朴大統領の軍事独裁政権を支持して日韓のパイプ役でもあったし、一貫して共産主義は全部、愚かであって極めて懐疑的で信用に値しないことを批判した右翼保守派でもあった。

 もちろん日本共産党とか日教組からみれば福田恒存の主張に辛らつな批判もしただろうが、今、じっくり読んでみると福田恒存の発言は暴論の右翼タカ派でもなくて正論とも思えてくる部分も多い。

 大江健三郎がいくら天皇制を廃止して日本共産党に政権をとらせて一党独裁で日本人民共和国を考えたとしても日本人となれば天皇制を支持して愛国者もいるし、日の丸・君が代が好きな人は絶対になくならないわけで大江健三郎は物事の本質を知らない軽佻浮薄な作家でしかない、と批判したいらしい。

 いくら大江健三郎が反日活動のように天皇制を廃止しようとしても絶対に思い通りにいくわけがなくて、保守右翼という他人が存在していて大江健三郎の発言に批判を加えてくる敵はもちろんいるわけだ。

 とはいうものの福田恒存だって敵のような他人がいるから大江健三郎も優れた小説も書けるということも知っていて『セブンティーン』とか『万延元年のフットボール』のような作品も出てくることも知ってはいたのだろう。

 現実の世界で大江健三郎が天皇制を廃止しようと反日発言をいくらしても無駄であることを福田恒存は知っていたと思う。

 反面、『セブンティーン』で右翼テロの本質にせまる作品や『万延元年のフットボール』のようなスーパーマーケットの天皇を倒すようなフィクションで文学的な価値がある作品が書けることも福田恒存は知っていたのではないだろうか?

 大江健三郎に象徴天皇制は敵であるのだろうが、敵がいるからこそ大江健三郎は『セブンティーン』や『万延元年のフットボール』のような小説を書けたわけで、三島由紀夫のような敵がいて大江健三郎もアイディンティティというか作家の命脈も保てることを知っていたのだろう。

 逆もまた真実で福田恒存も大江健三郎という敵がいるからこそ評論家として自分が面目を保てることも知っていただろうし、右翼や保守に左翼がいないと自分のアイディンティを保てないこともまた、知っていたような気がする。


三浦:僕もやや左翼系の家庭だったんで、加藤周一とか、鶴見俊輔とか、日高六郎とかね、そういうことを言っている人が正しいと思って育っちゃったんで。


実は、個人的に買って読む本は保守系の人の本だったんだけれども、でも大学に入ると、さらに左翼的言説の影響を受けるので。そういう意味じゃ、福田というのは「悪の権化」ぐらいの存在だったから(笑)。


浜崎:そうでしょうね。


三浦:朝っぱらから意地悪な顔して、うるさいおじさんが何言ってんだって思い ながらも毎週見てた(笑)。見てたってことは、何か惹かれるものがあったんだろうと思うんだが、まずは福田を論駁してやろうと思って、最初に何を買ったか 忘れたんだけど、平和論の本だったかなぁ。

それでね、読んだら身体が動かなくなったの。頭が金縛り。つまり隙がない。剣道でいうと、どういっても切り込め ないとか、合気道でいうと、関節技が決まっちゃったみたいな、絶対これはダメだ、っていう感じがあって。やっぱり、そこは理屈ですね、確かに。感覚で言っていれば、こっちも「嫌い」で済んじゃうんだけど、「嫌い」では済ませてもらえないものがあるんで、こっちも論理で立ち向かいたいんだが、無理だと。

で、 かつ、その論理に、小林秀雄の実感とはまた違うんだろうけど、つまり常識ね、庶民の常識みたいなものが、しっかりと根にあるんで、ますます動けないって感 じでがんじがらめになって、逆にファンになってしまったんですよ。

 関節技で金縛り

 三浦:それはない。一橋だからということもあるでしょうが、基本がやや右ですし。時代が時代だから、左だって言ってる人はすでに少し変わった人だったし、特に右だって言う人もいないし、だから白眼視はないですね。

 たまに福田の話をすると、肯定する人のほうが多かったですかね。当時よく議論した先輩が、左翼だったけど、僕のことをブログで書いてくれるとき、三浦は学生時代に福田恆存のようなモラリストの本を読んでいたと紹介してくれています。 。

 福田恆存とマックス・ウェーバー


 福田恒存は意外に冷静に文芸評論も書いていて意義深いこともいっていたとも思えてもくる。

 左翼で福田恒存は街宣右翼のような愛国者と思って敬遠していたが、どうも一読してみるとそれなりにユニークな評論家である、と評価するのも私は理解できる。


 いくら日本人の愛国心や国を思うことを左翼が否定しても右翼な保守派が絶滅することはない。
 右翼がいくら左翼を批判しても大江健三郎的な発言を撲滅することは不可能だ。 

 右翼や左翼に双方、批判者という他人という敵が介在するからこそ、作家は優れた作品を書けるモチベーションが存在するということを福田恒存はいいたかったのだろう。

 福田恒存はネトウヨのような陰謀論とか在日特権のような低俗な発言をしているわけではなくて、保守特有の論理性はもちろんあったと評価するしかない。


三浦:確かに、学生時代に読んだときもちょっと意外だったんだけど、彼はタカ派だ、右翼だと言われていたのに、戦争中のことを 批判しているでしょう。戦争中を軽佻浮薄と呼んでいるよね。

歌を歌って、兵士を送り出すなんて、軽佻浮薄だって書いてあったと思うんですが、あれ? そう なんだと僕は学生時代に思いました。

この人は右翼で、反動で、戦争が好きなんだと思っていたら、そうじゃないんだと。これ、どういうふうに考えたらよいの かというのはいまだにわからないけど、つまり、特定の国とか、特定の地域社会とかを賛美して、旗を振って、歌を歌ってっていう、そういう共同体主義はまっ たくないよね。


 福田恒存も実は大東亜戦争の国威発揚には非常に懐疑的であって日本が戦争に敗北して墓穴を掘って初めから敗北することも冷静に知っていて防空壕で穴蔵生活だったようでもある。

 大江健三郎の憲法に関する発言で福田恒存は批判はしていたが、同時に太平洋戦争の挙国一致にも手厳しい批判をしていた冷静な保守派であって現実感覚もまた持っていた知識人でもあったのではないか?

 福田恒存は大江健三郎も批判していたが、今でいえばネット右翼のような戦争熱に浮かれる戦前のナショナリズムも同時に嫌っていたのだろう。