大江健三郎がノーベル文学賞を受賞しても批判の声が逆巻き、どこまで日本を貶めれば気が済むのか!という怨念がネットですさまじい。

 ああいえば上祐・・・みたいに大江健三郎が何か発言すれば反日三昧の大江健三郎の売国奴ぶりが良くわかるではないか、のネット民も声の批判。

 その一方で日本人で初めてノーベル賞を受賞した川端康成に対しては批判の声は少ない。

 むしろ文化勲章を受章してノーベル文学賞を受賞した川端康成が日本人として良識もあるのではないか?という意見もあって大江健三郎は川端康成を見習え!という批判もある。

 しかし、日本で始めてノーベル文学賞を受賞した川端康成の晩年は自殺という悲劇に満ちてもいた。
 最も川端康成もガス自殺とはいえない側面もあって遺書もないので自殺と断定することはできない、という説もあるのでこの辺は何ともいえない。

 川端康成が三島由紀夫の自決に精神的な傷を受けて睡眠薬を服用していて、精神的に参っていたという説もあってどうもガスストーブの操作を誤った上での事故であって自殺ではない、という説もあるので川端康成が自殺作家と決め付けてはならない気もする。

 大江健三郎の盟友の伊丹十三も自殺ではない、という説もあるので川端康成の事故説のようなこともあるらしいので真相は本人だけが知っている、ということでもあるのだろうが。

 しかし、大江健三郎も若い時には『われらの時代』のような青年がいつも自殺を意識して生きていくような現代社会の不安や疎外感をあぶりだすような小説も書いていたし、自殺願望のようなアイデンティティ・クライシスもあったのは否定できないと思う。

 大江健三郎の初期作品は青年期の暗い鬱屈とした苦しみのような絶望を書くような作品が多く、作品が悪文で難解で酷評もまた多かった。

 大江健三郎の人生の最大の危機は『個人的な体験』で息子の大江光が障がい者に生まれてしまい、激しく自分の人生に悩み、自殺を回避するためにどうすればいいか?を小説で問うようになると自殺願望を克服できて大江健三郎は結果としてノーベル文学賞を受賞するようになった、としかいえないのではないか?

 ある意味で大江健三郎の人生は自殺を望む人生との内面の戦いでもあったのか?と思うことがある。

 もちろんノーベル文学賞というのは大江健三郎にとっては結果でしかない、のだろうが、大江健三郎が川端康成のように自殺ということはありえない強靭さも身に付けていると私は思うことがある。

 三島由紀夫の自決を大江健三郎は戦後民主主義を破壊する狂気と断定して、激しい批判を加えているし、同じノーベル賞作家の川端康成の自殺もあるとなると大江健三郎は作家的なプライドもあって最後まで自殺はすべきではない!と強く思っているとしか思えない。

 もちろん大江健三郎の伊丹十三の自殺も苦い体験として知っているのもあるし、かつての盟友だった江藤淳の晩年の自殺も知っていると思うと、どうしても自分は日本でノーベル文学賞を受賞した作家で最後まで天命を全うするのが責務とか作家的な道義だとも思っているとは思う。

 となると大江健三郎は右翼や保守派やネトウヨから国賊・大江健三郎めが!とか、反日ばかりで日本を貶めて愛国心や国益を考えない大江健三郎めが!といわれても政治的な発言もするだろうし、レイト・ワークは天命と思って小説や評論を書くだろうとは思う。

 大江健三郎は反日作家で老害である・・・と酷評しても本人は川端康成がガス自殺したノーベル賞作家でそれは不幸な体験となれば自分は天命を背負って最後まで発言するというのは正しいと信念で思っているのではあるまいか?

 大江健三郎は見かけによらず自殺の危機を何度となく跳ね除けてきた偉大な作家でもあることは評価してもいいのではないか?と私は思う。

 だからこそ私を国賊売国奴と批判しても私は発言するのをやめないのが自分の作家的生命と大江健三郎も持っていて原発問題や憲法改正には鋭く反対する理由も強靭に持っている意思の強さもあるのではないだろうか?

 大江健三郎は見かけはひ弱な知識人のインテリでもあるのだろうが、内面は逆に強靭な精神構造も持ち合わせた作家で国賊とか日本を貶める反日作家で幼稚な左翼と中傷されても発言は死ぬまで続けそうだ。