昔、清水幾太郎という評論家がいたのだが、大江健三郎も清水幾太郎のことは知っているのではないか?とは思う。

 昔は大江健三郎も清水幾太郎に関して肯定的な評価を下していたが、晩年は清水幾太郎が明確な敵になった極右ナショナリストとしてタブーというか大江も毛嫌いしていたのではあるまいか?

 思想家・清水幾太郎は始めは60年安保闘争では左翼的は発言を繰り返して、日本共産党や大江健三郎も好感を得ていた左翼の評論家であったが、60年安保闘争が挫折すると、清水幾太郎は極右というか、憲法改正論者に杓子豹変して、教育勅語や日本の核武装を堂々といい出すようになってしまった。

 新しい歴史教科書をつくる会の藤岡信勝のような左翼から極右に転向した清水幾太郎であるが、かつては大江健三郎も清水幾太郎を平和運動の積極的な発言者として評価していたこともある。

 日本の原発問題や核武装には激しく批判を繰り返す大江健三郎は清水幾太郎の変説というか右翼への転向を江藤淳より、激しく嫌悪していたようにも思えてもくる。
 清水幾太郎の変説は左翼から始まって新左翼から極左から極右というご都合主義のようなもので、藤岡信勝にそっくりでもある。

 「進歩的文化人」は大江健三郎の専売特許ではなくて、清水幾太郎のようなオピニオンリーダーにも当てられる言葉であって大江健三郎も同時代人の清水幾太郎の名前は知っていたと思う。

 しかし、藤岡信勝のように極右になって核武装も当然、日本の国防を考えると急務である!と妄想が肥大化したように清水幾太郎がいい出すと大江健三郎もかつての同志の過激な変説には激しい拒絶感を覚えていたのではあるまいか?

 加えて清水幾太郎が大江健三郎が嫌いそうな学習院大学というか皇室とつながる大学で権力に媚を売るように教授になっていたのもあったのも大きかったらしく、大江健三郎の清水幾太郎のことは黒歴史のように沈黙したいのか?とも思えてもくる。

 学習院の極右教授の清水幾太郎のような悪評が左翼の側から批判が出ると、大江健三郎も内心、黒歴史のように清水幾太郎のことを黙殺したい、と強く思っていたのだろう。

 「進歩的文化人」――記事の中で二度使われたこの言葉はまさに清水のためにあるような言葉だった。 敗戦から六〇年安保闘争までの十五年間にわたる「政治の季節」において、清水は日本のオピニオン・ リーダーの代表だった。ある人物の死亡記事を掲載するかどうか、掲載する場合の記事の大きさを どうするか(何面に何段組みで掲載するか)ということについては、その人物の知名度が大きな 基準となる。

 清水の死亡記事は彼の知名度にふさわしい大きさであったといえる。  

 ただし、『赤旗』は清水の死を報じなかった。『赤旗』は清水と同じ日に亡くなった「社会派映画監督 の先駆け」木村荘十二の記事を大きく掲載し、清水の死を黙殺した。清水の知名度の高さは、たんに 「進歩的文化人」としてのものだけではなく、そこからの「急旋回」とも関係がある。

 共産党の視点で  見れば、戦後の清水は「進歩的文化人」→「トロキスト(全学連主流派)の同伴者」→「転向者」→ 「右翼のデマゴーグ」とその位相を変化させた人物である。『赤旗』は清水の「急旋回」を批判的に語る のではなく、まったく語らないことによって、清水幾太郎という存在そのものを否定したのである。


しかし、『倫理学ノート』の翌年(一九七三年)に発表された「天皇論」(『諸君!』三月号)、 そのまた翌年(一九七四年)に発表された「戦後の教育について」(『中央公論』十一月号)、 そして『諸君!』(一九七三年七月号~一九七五年七月号)に連載された自伝『わが人生の断片』は、 清水に再接近していた人々を彼から再び遠ざけ、戸惑いながらも清水にずっと同伴してきた人々 の多くを突き放した。

清水は「天皇論」で天皇制を擁護し、「戦後の教育について」で教育勅語 を再評価し、『わが人生の断片』で基地反対運動や安保闘争の内幕を赤裸々に語った。

「進歩的文化人」のグループがア・プリオリに負の記号を付けてきたもの、タブーとしてきたものに、清水は触れたのである。  

清水の「右旋回」はそれで終わらなかった。清水はさらに「戦後を疑う」(『中央公論!』一九七八年 六月号)で治安維持法を弁護し、ついに「核の選択――日本よ国家たれ」(『諸君!』一九八〇年 七月号)では、核武装の可能性を含む軍事力増強論を唱えるに至った。

清水の「戦後」批判は、 戦後の思想が批判していたものを再評価する方向へ一方的に進んだ。確かに否定の否定は肯定で ある。

しかし、これは単一の命題についての論理であり、「戦後」という複合的命題については 適用できない。

「戦後」批判を行ないつつ、戦後の思想が批判していたものを従来とは 別の視点から批判するという方向は可能性としては存在していたはずである。 しかし、清水は単純明快な方向を選んだ。

忘れられつつある思想家―清水幾太郎論の系譜―

 戦後は左翼文化人でもあった清水幾太郎も実は左翼とか共産主義の平和運動は一種のファッションというか自分が流行文化人になりたいのであくまで偽装するような見せかけだったらしい。

 清水幾太郎の性急な核武装論はかつての盟友の日本共産党からは救いようもない極右的狂気と激しい批判を浴びたし、保守文化人からもいくら何でも清水幾太郎の核武装論はついていけない・・・ということでこれまた批判を浴びて孤立無援の状況だったらしい。

 今でいえば清水幾太郎はブログで核武装を叫んで目立ちたいようなネトウヨのようなものでもあった、といえば分かりやすいだろうか?

 清水幾太郎も今のように北朝鮮が拉致事件を起して核開発をしている時代ではないのに単に保守論壇で目立ちたいと思ったがゆえに日本は核武装を堂々として憲法改正も正しい、といいだせば左右から常軌を逸した発言で多いに呆れられた性急な暴論というしかない。

 大江健三郎ならば日本核武装を扇動した学習院大学の清水幾太郎は三島由紀夫事件の亡霊に蝕まれたような極右ファシストに自分も昔、肯定的な評価もしたということで激しく忘れ去りたい人物ということになってしまったのではないだろうか?

 清水幾太郎も藤岡信勝のような転向右翼というか転向極右になった晩年に多くのかつての左翼の仲間は冷笑して、大江健三郎もまた、冷たく清水幾太郎の死を突き放す人間の一人だった、とも思えてくる。