大江健三郎が作家で政治的な発言の影響や悪文のせいで好き嫌いが激しい作家になっているのは自分も知っている。

 同じような作家といえばふと思いつくのが太宰治。

 何かちょっと状況が似ている・・・と思ったのだが、作家で好き嫌いが出るのはしかたがないのか?とも思う。

 三島由紀夫が太宰治に関して嫌いだ!と本人の前でいったという話は有名で川端康成も太宰治は嫌っていて芥川賞を落とされた腹いせに太宰治が短く『殺す』と表現したことは有名だったりする。

 太宰治も川端康成に芥川賞を落としたのが気に入らない!といって食ってかかる幼稚な性格だったので嫌いな人は太宰治は永遠の子どもな中二病作家ということで低評価なのだろう、とは思うのだが。

 大江健三郎も左翼な人なので太宰治が戦前、日本共産党の左翼運動に関与したことは知っているとは思うが、余り影響は受けたようには思えない。

 大江健三郎も太宰治に関しては嫌い?なのか・・・と思ってしまう。
 太宰治といえば戦前、右翼な文学者の日本浪漫派にも所属したので大江健三郎は余り評価したくない気持ちもあるのではないだろうか?

 大江健三郎の悪い癖は右翼とか反動と思った作家を軽蔑する性格があって、三島由紀夫は完全な敵でしかないだろうし、太宰治も三島の亜流のように思っているのか?と思う。

 保田與重郎と太宰治は日本浪漫派の系譜・・・・となると、大江健三郎も太宰治は余りいい評価を与えたくないのか?とも思ってもしまうが。 

 「僕は太宰治が(いかがわしいから)大嫌いなのですが」……このつぶやきが発端となりTwitterが炎上した、お笑いコンビ・キングコングの西野亮廣。

 その後、「太宰治先生のファンの皆様、たいへん申し訳ございませんでした」と謝罪したが、その際、「負けた私が言うのもおかしな話ですが、『大人と は裏切られた青年の姿』なのです。

 覚えておいてください」と、太宰の作品『津軽』の一節を引用。太宰への印象だけで語っているわけではなく、作品を読んだ上での発言であることを漂わせた。

 太宰治といえば、残された写真をケータイの待ち受けにもしているというピースの又吉直樹をはじめとして、今も熱狂的なファンを生み出している文豪。


 しかし、キンコン西野のように「嫌い!」と拒否反応を示す人も少なくない作家でもあるのだ。


 キンコン西野だけじゃない! 太宰嫌いな人々

 太宰治の熱狂的なファンがいて桜桃忌が今も続いている一方で、太宰治の桜桃忌というか幼稚な中二病的な作家な太宰治が大嫌い!という極端な評価は大江健三郎の好き嫌いに通じるものではないか?

 どうも個人的に思うのだが太宰治も詩の引用で自己中心的なナルシシズムを漂わす幼稚な悪文のように思う人がいて、大江健三郎もまたウィリアム・ブレイクやイエーツの詩を引用して悪文を書くような文体なので嫌いな人は嫌いな作家で激しく嫌悪するのもあるのか?と思う。

 ともかく太宰治も大江健三郎も詩からイメージを膨らます作家であるから、文章に癖があるのはしょうがない。

 詩から始まった文学で自己陶酔作家の太宰治とか大江健三郎という悪文家もまた嫌いな人からは酷評されるのが作家の宿命でもあるのだろう。


えらばれてあることの
恍惚こうこつと不安と
二つわれにあり
         ヴェルレエヌ

 死のうと思っていた。ことしの正月、よそから着物を一反もらった。お年玉としてである。着物の布地は麻であった。鼠色のこまかい縞目しまめが織りこめられていた。これは夏に着る着物であろう。夏まで生きていようと思った。


 好きな人は太宰治も大江健三郎も好き、だろうし、嫌いな人は嫌いで評価が分かれてしまうのだろう。

 太宰治の『晩年』の『葉』もヴェルレエヌの詩から文章が始まっていくのだが、今、読み返してみると大江健三郎の『新しい人よめざめよ』のような雰囲気に近い作家の想像力もありそうだ。

 文学などはこんなもんだ・・・で割り切るといいのだろうが、今も太宰治の小説は何だかんだと批判を浴びても大江健三郎の小説より、大衆には人気があるのはやはり・・・魅力があるのだろう、とは思う。