井上ひさしとえば大江健三郎の盟友でもあった。

 大江健三郎も被爆者問題で井上ひさしを尊敬していたし、井上ひさしも大江健三郎の作品を尊重していて『同時代ゲーム』が悪文で理解できない小説を書いたということで酷評されても励ましてもいたのだろうか?ととも思えてもくる。

 大江健三郎が『同時代ゲーム』で難解な四国の小国家が中央政府に圧殺される話を書けば、井上ひさしが『吉里吉里人』で分かりやすく同じような日本の独立国家の自治国家を書いて崩壊するような話を分かりやすく長編小説で書く。

 大江健三郎と井上ひさしは文学上の仕事では相思相愛だった。
 しかし、 井上ひさしには痛烈なまでの学歴コンプレックスがあったという。

 井上ひさしは上智大学という名門大学を出ているが、上智大学が大嫌いだったという。

 井上ひさしも学歴コンプレックスのかたまりで上智大学から東北大学に編入しようとして無残に失敗して学歴に対するこだわりは生涯、松本清張の学歴コンプレックスのように消えないままだったという。

 とはいうものの井上ひさしは大江健三郎の東大文学部卒という学歴は憎くなかったらしく、むしろ、大江健三郎が貧しい職人の家の生まれで大江健三郎だけが東大に入学できた経済事情を知ると努力で自分の道を開いた大江健三郎を尊敬したと思う。

 井上ひさしも実は不幸な少年時代を送っていて仙台の孤児院で貧しい生活の辛酸をなめたので大江健三郎が努力の果てに芥川賞作家から大きく文壇の寵児になろう、としているのを知ると己の事情を知って大江健三郎との関係も深めていったのか?とも思えてもくる。

―著書の中に、障害をもって生まれた光さんについて、健三郎さんのお母さんが、「かれのいったりしたりすることすべてを絶対的に支持してくれた」というくだりがあります。

 大江 僕の母は、愛媛の田舎に生まれそこで死にました。父が戦中に亡くなったので、長兄と二人で家を支えた人です。そして、どういうわけか、僕を選んで、この子どもを勉強させてやろうと考えたのです。

 七人兄弟の中で、大学には、僕一人だけ。それだけの経済力しかなかった。

 僕が小説家になると聞いて、学者になることを期待していたらしい母はがっかりしました。

 母がひとりで東京に出てきたことがあリましたが、どうも僕の先生 の渡辺一夫さんに会いに行ったのらしい。ともかく小説家になってしまった、子どもの時から風変わりな息子と結婚してくれる人がいるということは、母にとってありがたいことで、家内を尊敬していた。

 そして、子どもが産まれて、障害を持っていた瞬間から、母は、この子を支持しようと考えたわけです。


 「元気をだして死んでください」

 井上ひさしの学歴で上智大学というのは名門大学で素晴らしい、と思ってしまうが、井上ひさしは上智大学という学歴を生涯、忌み嫌っていたというか、毛嫌いしていたという。

 本人がカトリックの孤児院で少年時代を送ったという体験で反カトリックな考えで宗教嫌い?もあったのか?もしれないし、上智大学に渡部昇一のような極右教授というか憲法改正を扇動するナショナリストがいてどうもその辺の事情が上智大学を死んでも母校とはいいたくはない、と思わせる理由だったのか?とも思えてもくる。

 作家の学歴観と大学観 井上ひさしと学歴の話

 井上ひさしと母校・上智大学

 どうも井上ひさしが大江健三郎との関係を深めたのは大江健三郎が職人の家で努力して東大に入学したので人の痛みが理解できるインテリであって共感する部分もまたあったのではないか?

 とはいうものの井上ひさしも妻にDVというかドメスティックバイオレンスや編集者に暴言というか暴力沙汰も時折、あって温厚な見かけとは別の深刻な悩みを抱えていたのだが。

 大江健三郎も日の丸・君が代の否定論者で反ナショナリズムの立場であったが、井上ひさしも同感で大江健三郎も井上ひさしを評価したのももちろん反ナショナリズムで被爆者問題とかに取り組む姿勢もあったのだろう。

 井上ひさしも筆が進まない苦しみの人生で深刻な悩みを抱えていたらしいが、晩年は大江健三郎に近い左翼リベラルは発言をして心の安定を得たらしいが、人生は戦いだったのではあるまいか?