大江健三郎が政治的な発言をするうえで重要な役割を担ったのが岩波の『世界』の編集者であった安江良介である。

 進歩的文化人として大江健三郎も安江良介と一緒に仕事をしたことが自分の文学で創造的な仕事を進めることができて感謝したい、と今もいっているわけだから影響は計り知れない。

 大江健三郎が『ヒロシマノート』や『沖縄ノート』を書けたのは岩波の名編集者だった安江良介がいたからだと本人が述べている以上、大江健三郎は安江良介とは相思相愛だったのだろう。
 しかし、岩波書店の安江良介といえば北朝鮮拉致事件には沈黙ただけではなくて、それこそ言論弾圧のように振舞った罪や間違いもあって晩年は全体的に低い評価に甘んじた職業編集者でもあった。


出版社の編集員であった町山智浩が 当時大手メディアにタブー視されていた拉致問題を紙面で検証していた折、岩波書店で発行される朝鮮半島関連の書籍の内容が親北朝鮮、反韓国であったことに 疑問を抱いて社長の安江に「私は元在日としてこの事件が許せないから調査しているんです」と理由を述べたところ、「お前には関係のないことだ!」と一喝さ れた。

この発言を「彼ら左翼の得になるから北朝鮮を礼賛していただけで、マイノリティとして暮らす在日のことなどどうでも良い」と町山は受け止めて憤慨 し、すぐさま発言を録音したと語っている。

安江良介


 北朝鮮の拉致事件の家族会からも北朝鮮の金日成の独裁と拉致を隠すような安江良介の態度は言論人として大醜態であった、ということで激しく批判を加えたことは有名だ。

 拉致被害者を救う会にいわせれば安江良介と大江健三郎は横田めぐみさんなどどうでもいいような態度で国賊売国奴にふさわしい犯罪に加担した言論人と非常に手厳しい。

 しかし、安江良介にいわせれば韓国の軍事独裁政権に対抗して金大中拉致事件や光州大虐殺を激しく非難していた時代のこともあったのであって、つい、北朝鮮の政治体制が何となく軍政で言論統制と強権発動の韓国より、よく思えたことも否定できない。

 岩波の『世界』に今のネトウヨの嫌韓とは違って韓国の軍事独裁政権を批判する『韓国からの通信』がT・K生の名前で連載していたが、実は大江健三郎の別名がT・K生とか、日本共産党の党員とか朝鮮総連OBの在日がT・K生ではないか?という憶測もあったらしいが、T・K生の正体はチ・ミョンガンだった、ということを最後に本人がカミングアウトして晩年、真実が語られた。


 40代以降の人なら「T・K生」を知っている人も多いだろう。

 73年から88年まで、月刊誌『世界』に「韓国からの通信」が「T・K生」の名前で連載された。韓国の独裁体制を激しく批判し、日本人の韓国イメージに大きな影響を与えた。 その一方で、北朝鮮に対してはいっさい批判せず、むしろ弁護する側に回った。

 83年、全斗煥大統領を狙ったラングーン爆破テロ事件や、87年の金賢姫が実行した大韓航空機爆破テロ事件なども韓国の謀略だと強く示唆した。

  「北を非難することは今では彼(朴正熙大統領)を助けることになる」「北に対する非難や批判をわれわれは当分の間カッコに入れておかなければならない」(75年6月号)という立場を取った。

 03年7月、池明観(チ・ミョングァン)氏が「T・K生」は自分だったと明らかにした。彼は東京女子大教授として当時、東京に住んでいた。

 その後、池氏は金大中政権で国営放送のKBS理事長などを務めていた。

 金正日体制崩壊を唱える「T・K生」


 安江良介といえば韓国の民主化運動に貢献した金大中を評価していて、日本の植民地支配の生き残りだった朴正煕が36年間の韓国併合に協力した親日派で昭和天皇に金の恩寵の時計をもらったことを生涯、許せなかったらしい。

 つい、韓国の軍政批判は執拗になって、北朝鮮の独裁には甘くなって人権抑圧や恐怖政治には甘くなったのは仕方がなかったのではないだろうか?

  もちろん私も安江良介の北朝鮮を無条件に理想の国と描いた態度とか拉致事件を言論弾圧のように否定した態度は間違いだと思うし、安江良介に追随して大江健三郎もまた北朝鮮の拉致事件に関して沈黙していた、ことも多いに反省というか批判を浴びて当然だとは思う。

 安江良介は全斗煥の光州大虐殺には激しい批判を加えたが、北朝鮮のラングーン事件に関してはちょっと沈黙気味だったのは悪いといえば悪い。

 安江良介の罪と罰というか光と影というか、人生の明暗もあるのはいたし方がないが、安江良介も晩年は北朝鮮の変質と韓国民主化の流れをみて誤りもあったが、自分は批判を受けながらも持ちこたえたと思っていたのではないか?