大江健三郎は同性愛の問題を積極的に書く作家である。

 最近のレイト・ワークの『水死』でもウナイコという女性の同性愛者が登場するが、大江健三郎は同性愛者ではない。

 結婚した相手は大江ゆかりという女性であって映画監督の伊丹十三とは義兄弟の関係になったわけだけれども、大江健三郎は同姓愛者の人権やジェンダーの問題には積極的な作風の作家だったりする。

 大江健三郎にいわせると同姓愛者の差別事件は部落差別や在日韓国・朝鮮人の民族差別のようなものであって、同姓愛差別にも敏感な作家でもあって、出口がない同性愛者の人の救済のような話を小説でロール・モデルのように提示しているといえばいえる。

 大江健三郎が『性的人間』や『万延元年のフットボール』などでエロチックな性と同姓愛の問題を積極的にテーマにしたのはどうも大江健三郎が性的少数者の人権に敏感で部落差別や民族差別のように性的少数者を排除するのは間違っているし、文学や小説で自分が復権させるのが大切なことだという考えが強いからではないか?

 日本の作家でも谷崎潤一郎や三島由紀夫は同姓愛的なテーマで小説を書いてもいたが、大江健三郎の場合、しこから一歩、踏み出して同性愛者の人権というか左翼進歩派のような筆致で小説を書いてきた作家でもあるのだろう。

 大江健三郎はLGBTのような性的少数者ではない、のだが、LGBTのジェンダー問題には理解を示す優れた作家だと私には思えてもくる。

 最近、大江健三郎が好きな画家にフランシス・ベーコンという20世紀の苦悶を表現したアートという発言をしていて、醜く歪んで暗い世界に美しさがあるのが優れているという発言をしているのだが、大江健三郎がF・ベーコンを優れた画家と表現して賞賛したのはベーコン自身がなんと同性愛者であったという事実もあるのだろう。

 恐ろしいのに美しい フランシス・ベーコン

 ベーコンの歪んだ叫び声のような奇怪な絵画に大江健三郎は芸術としての積極性というか評価を与えているのだが、F・ベーコンが同性愛者の差別が強烈な時代であったがゆえに誰よりも深く、叫び声をあげていた画家の苦悩を大江健三郎自身が深く知っていて、F・ベーコンを評価しているのも理解できる話だ。

 F・ベーコンもキリスト教圏のアイルランドで自分の同姓愛という立場の苦しみを部落差別や民族差別やユダヤ人問題のように隠す悩みを絶望的に味わっていたらしく、絵画の作風には鬼気ぜまるものがあるのだが、欧米で同姓愛者は神に背くできそこない人間のようなものである、というので今も差別は続いていて難しいテーマをはらんでいるといえばいえる。

 
 私たち同性愛者の多くは、自分で自己表現することができないでいます。公に自分の思いを発表する場がないばかりでは なく、常に、世間に、勝手な、それも否定的なイメージを作られ、さらには、日常生活の中で実際に笑われたり、からかわれたり、無視されたり、軽蔑されてし まう中で、自由に自分のことを話すことが困難な状況におかれているのです。  

 マスコミについてはくり返しになりますが、ここでも重要なポイントになるので、ひと つ例をあげましょう。

 数年前、TBS系のあるバラエティー番組の中で、ゲイのカップルを紹介するというコーナーがありました。  

 それを見て、私はとてもびっ くりしてしまいました。ゲイのカップルがふたりで手をつないで道を歩いているシーンに切り替わったとたんに、効果音で「笑い」が入っていたんです。  

 会場の人が自然に笑ったのではなくて、笑いをとるために、わざわざ入れたわけです。

 これは、男どうし、あるいは女どうし、つまり同性が手をつないで歩いていると ころがあったら笑っていいという、メッセージを、マスコミが日夜発信していることになるわけです。  

 ある調査によれば、ゴールデンアワーだけでも、テレビで 一日に三回から四回は同性愛、あるいはニューハーフの人たちを「オカマ」という様な言葉で嘲笑する映像が流されているそうです。

 (1)自己表現を奪われる同性愛者

 同姓愛者が日本で納得のいかない絶望的な無理解というか哄笑のイメージで苦しんでいて、お前はホモで新宿2丁目とか、レズは気持ち悪いから嫌い・・・でどう表現していいか分からない苦悩を抱えていることを大江健三郎も決して同姓愛ではないが、知っていて小説の表現として大切にしたいと考えているのではないか?

 大江健三郎が初期作品から性的人間というかエロチックな性にこだわったのは、実はエロ小説とかポルノグラフィやアダルト小説とは無関係で性差別のジェンダーバイアスの問題だったり、性的少数者の行き場のない叫び声なテーマだったと思うと作品を理解する上で大いなる手がかりになるのではないか?