大江健三郎が画家のフランシス・ベーコンを高く評価する理由はどうも同姓愛の性的少数者の問題だけではないようにも思える。

 フランシス・ベーコンが自分の肉体を表現する際にこのような言葉を残している。

「わたしたちは肉である。いつかは死骸になる」

ベーコンは、そう言っていた。この絵を描いた頃のベーコンは30代半ば。画家としては無名であり、そもそも美術の教育など受けたことがなかった。

だが、この絵には確かな感情のほとばしり、「叫び」がある。肉の塊と化した生き物は、それでも大きく口を開け、何かを叫んでいるのである。

「人間の叫ぶということは、こういうことなんだ」

小説家・大江健三郎氏の耳には、ベーコンの叫びが聞こえている。

「一個の人間が叫ぶ。恐怖によって叫ぶ。怒りによって叫ぶ。悲しみによって叫ぶ。その叫び声が、こんなに見事にとらえられている絵はない。しかもこれは美しい」

「僕は美しいと思うんですね。フランシス・ベーコンという人が、戦後から21世紀までの絵の世界を完全にリードした人だということを、いま改めて感じています」

混沌の画家「フランシス・ベーコン」。心をえぐるその美

 大江健三郎はベーコンが「わたしたちは肉である。いつかは死骸になる」という表現に『死者の奢り』のイメージを重ね合わせていたのだろう。

 加えてF・ベーコンが肉の解体を白黒写真のテーマにしていて日本でいえば被差別部落の屠殺こそ芸術の本質ではないか?ということも本人は同時に知っていたと思う。


 日本では馴染みが薄いが、西洋絵画の歴史を紐解けば、「肉」はモチーフとして長い歴史をもっている。

 「肉欲」という言葉が示すように、 欲望や快楽など「性的」な意味合いが含まれる他、堕落とも結びついた否定的なモチーフだった。この否定性は、聖書にある「肉(性)」の否定を源流とし、 「罪」が象徴されている。

 17世紀以降、こうした象徴性は忘れられてきたものの、三幅対(トリプティック)と融合させたベーコンの作品にいたっては、無意 味と考えることはできない。

 伝統的なキリスト教絵画、それも祭壇画で多用されてきた三幅対(トリプティック)。キリストの磔刑という最も神聖なモチーフが 収められるべき鋳型に、画家はあえて罪悪の塊を描きこんだのだ。

 『フランシス・ベーコンのエロティシズム』 至福に満ちた解体室


 大江健三郎が部落差別に共感していて狭山事件は冤罪であって石川一雄被告は無罪であって人権侵害であって国家権力の犯罪だと今も思っているのだろうが、ある意味で肉の塊のようなグロテスクなオブジェをアートとして表現するのは部落差別を物語る深遠なテーマであることを本人も自覚しているのだろう。

 確かにフランシス・ベーコンが肉の固まりをアートの表現として白黒写真で撮影している写真はグロテスクな光景であるが、人間の欲望や悪徳やいやらしさを一枚の写真で表現するような後味の悪さもある。

 しかし、後味が悪いベーコンの肉の写真は同和問題のように人間に差別とは何か?を単刀直入に訴えるような深遠さもあるし、実はグロテスクな表現にこそ本物のアートというものがあって実は美しい人間の本質が凝縮されていることを大江健三郎も知っているのだろう。

 実はフランシス・ベーコンの肉のオブジェのような醜く、歪んだ存在をありのままに受け入れることが美術であって芸術であるということも大江健三郎は知っていて、同和問題とフランシス・ベーコンを同時に同じように考えてもいるのだろう。

 フランシス・ベーコンの肉の固まりをアートと表現したことは醜くもあり、醜さの中に美しさもある。

 同和問題で肉の解体業というか屠殺という行為は醜い行為でもあるが、美しさも同時に宝石のようにある。

 大江健三郎も同和問題や部落解放同盟を支持する発言をしていたが、フランシス・ベーコンの肉の芸術を知ったときに自分が表現していた世界をベーコンが写真や絵画で表現していたことに感銘を受けたのではないだろうか?

 肉の解体業というか屠殺という行為をベーコンの表現ではグロテスクでもありながら、実は美しいテーマであるということを表現していて興味深いと思う。