自分なりに思うのは三島由紀夫の小説の作品はサルバトール・ダリに似ているといえば似ている。

 ダリがスペインの軍事ファシスト政権のフランコを崇拝している姿がダリのようにも思えてくるし、実際、画家のサルバトール・ダリが三島由紀夫のように派手なパフォーマンスをいつも演じているとつい、三島はダリみたいな画家のようにも思えてくる。

 三島由紀夫を画家に例えればダリ、という意見は自分はそこそこ正しいと思うことがあるのだけれども、実際、三島は画家でいえばピカソのような人だったのではないか?という意見もあるが、この辺も正しいといえば正しい。

 ピカソは9歳で馬の絵を書いて彼は天才!と思った親が画家を辞めてしまったが、三島由紀夫だって8歳でピカソの絵のようにすごい文章を書いていて天才というしかない。

 学習院初頭科のエリート教育の影響もあるのだろうが、何よりも三島由紀夫が画家でいえばピカソのような初めから絵が書ける文章の天才だったことは否定できない。



ヂリヂリとベルがなつた。今度は図画の時間だ。しかし今日の大内先生のお顔が元気がなくて青い。
どうなさッたのか?とみんなは心配してゐた。おこゑも低い。僕は、変だ変だと思つてゐた。

その次の図画の時間は大内先生はお休みになつた。御病気だといふことだ。ぼくは早くお治りになればいゝと思つた。

まつてゐた、たのしい夏休みがきた。けれどそれは之までの中で一番悲しい夏休みであつた。
七月二十六日お母さまは僕に黒わくのついたはがきを見せて下さつた。それには大内先生のお亡くなりになつた事が書いてあつた。

むねをつかれる思ひで午後三時御焼香にいつた。さうごんな香りがする。
そして正面には大内先生のがくがあり、それに黒いリボンがかけてあつた。
あゝ大内先生はもう此の世に亡いのだ。

僕のむねをそれはそれは大きな考へることのできない大きな悲しみがついてゐるやうに思はれた。

「大内先生を想う」(9歳)

徳川時代の末、波静かなる瀬戸内海、
或は江戸の隅田川など、あらゆる船の帆には白地に朱の円がゑがかれて居た。

朝日を背にすれば、いよよ美しく、夕日に照りはえ尊く見えた。それは鹿児島の大大名、天下に聞えた

島津斉彬が外国の国旗と間違へぬ様にと案出したもので、是が我が国旗、日の丸の始まりである。
模様は至極簡単であるが、非常な威厳と尊さがひらめいて居る。之ぞ日出づる国の国旗にふさはしいではないか。

それから時代は変り、将軍は大政奉くわんして、明治の御代となつた。
明治三年、天皇は、この旗を国旗とお定めになつた。そして人々は、これを日の丸と呼んで居る。
からりと晴れた大空に、高くのぼつた太陽。それが日の丸である。

「我が国旗」(11歳の作文)

三島由紀夫が小学生の時に書いた作文がすごい

 しかし、9歳や11歳でもはや作文を超えた作家の文章を書けた三島由紀夫。

 もちろん学習院初頭科というエリートの教育機関で皇室と縁がある文学教育を受けた影響もあるのだろうが、パブロ・ピカソのような天才であったということがよく分かる。

 11歳の『我が国旗』な作文で早くも晩年の憲法改正のクーデターのような自決を意識していたのか、学習院と皇室の愛国心が芽生えていたのか?は知らないが恐ろしい才能は事実というしかない。


画家になるために生まれてきたようなエピソードですが、スペイン語で鉛筆のことを"lápiz"といい、短縮形の"piz"というのが彼の最初に発した言葉だったそうです。


芸術家であり、芸術の先生だった父親のルイスは、ピカソが7歳になったときから芸術の教育を施したと言われています。ピカソが13歳になる頃には追い越されたと父親自身が思い、描くことをあきらめたそうです。


天才画家ピカソのあまり知られていない10の秘密

 ピカソも7歳で言葉を覚えた際に画家の親の遺伝で早くも鉛筆・・・なんていっていたようでもあるが、三島由紀夫も9歳でもう作家になっていく運命や宿命は固まっていたような天才ではなかったのか?

 三島由紀夫が画家でいえばピカソのような初めからの天才であったのに対し、大江健三郎はベーコンのように苦悩を抱えながら努力で文学を表現した努力型の天才とみるべきだろう。

 東大在学中に大江健三郎はピカソのように才能がありすぎた三島由紀夫を妬むというか嫉妬して俺は・・・と思ってだんだんと三島由紀夫の右翼的な小説を激しく毛嫌いするような側面もあったようにも思えてもくる。

 しかし、晩年の自決。ピカソは逆の道に進んだ三島由紀夫。

 昔から三島由紀夫は画家でいえばピカソのような天才だと思っていた人はもちろん晩年の自決などする必要はなくてピカソが自殺したようなものだ、と三島由紀夫の晩年の事件に批判的になったこともうなずける。

 三島由紀夫もピカソのようにたくさんの優れた小説を書いて川端康成の次にノーベル賞を得て欲しかった。

 もし、三島由紀夫が自決しないで日本で天寿を全うしたら画壇のピカソの保守作家の大御所みたいになっていたと想うのだが。