大江健三郎研究ノート

ノーベル賞作家の大江健三郎を考えるブログ。自分なりに作家・大江健三郎を考えたことの考察というか研究ノート。

大江健三郎批判

ヘイトスピーチから考える大江健三郎批判


 最近のヘイトスピーチは過激化している。

 ブログで日教組批判や『朝日新聞』批判や日本共産党批判では飽き足らない。

 大江健三郎批判で大江健三郎は文化勲章を辞退した悪文家であって国賊であって皇室を貶めて反日ばかりで日本の悪口をいうだけで許せないが、もっと許せないのが在日特権で日本を支配する在日朝鮮人である!

 ということで新大久保にまでネトウヨが出てきて在日特権を許すな!で愛国者宣言でヘイトデモ。

 さすがに大江健三郎を国賊と批判しているような右翼からもこれではいただけない、と思っているのはもちろんあるだろう、とは思う。

 ――正直、どっちもどっちではないかと…


 下品な言葉遣いの中心にいると自覚してますけど、彼らは外国人というだけで「出て行け」と叫ぶ。全然違うと思っています。


 人間って、暴力的なものを本能的に持ち合わせていると思うんです。彼ら、ヘイトのコールをすると、快感らしいんですね。ただ、こっちは差別をしている個人に絞って「差別をやめろ」と罵倒しているのであって、属性への罵倒ではない。


 ――なぜ右翼の山口さんが、「ネット右翼」とか「ネトウヨ」と言われる在特会のデモに反対するんですか?


 あれは愛国者じゃないでしょ。人の痛みも考えられない差別主義者は真の右翼ではない。日本が大好きで誇りに思っているなら、なぜ他の人に配慮できな いのか。


 在日コリアンもニューカマーも日本を好きでいてくれて、そこで商売しているのに、罵倒したりバカにしたりする。韓国人もアメリカ人も、国や故郷を誇る思いは一緒です。そういう尊厳を踏みにじる行為が理解できない。だから目を覚まさせたい。「差別して何が愛国者だ」と。愛国心の暴走を止めたいんです。


 ヘイトスピーチに「愛国者じゃない、日本の恥」 カウンター右翼青年が叫ぶ理由

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大江健三郎を逆恨みした本多勝一の晩年の凋落


 左翼で本多勝一の大江健三郎批判は左翼陣営でも杜撰で幼稚で呆れてものがいえない態度ではなかったのか?

 理由は大江健三郎や文芸春秋社や新潮社という右翼反動で原発擁護と反核運動つぶしの出版社から大江健三郎が本を出したり、芥川賞の選考委員になっているので大江健三郎は許せない!という幼稚園児とほとんど変わらない批判である。

 『週刊金曜日』でも本多勝一の大江健三郎批判に井上ひさしも呆れていたし、佐高信もまた呆れてもいたのではないか?


 『核戦争の危機を訴える文学者の声明』をめぐる大江健三郎批判への批判 1982年に小田実・小中陽太郎・中野孝次が中心となって『核戦争の危機を訴える文学者の声明』(後に岩波ブックレットから公刊)が発表された。

 この声明には大江健三郎も呼びかけ人に加わっているが、それに対し本多は、反核運動に批判的であるばかりか軍備拡張に熱心な意見に賛同している文藝春秋から文学賞(芥川賞・直木賞など)を貰ったりその審査委員をするなどして協力しているのは「体制・反体制の双方に『いい顔』をみせる」非論理であるばかりか利敵行為ですらあると批判。

 大江に公開質問状を送った(大江は何も回答せず)。 但し、この声明の呼びかけ人の中には大江以外にも井伏鱒二・井上靖・井上ひさし(後に「週刊金曜日」の編集委員になっている)・生島治郎・堀田善衛といった芥川・直木賞の受賞者が名を連ねているし、賛同者に至っては司馬遼太郎など明らかに文春に近い文化人・文学者が大勢名を連ねている。

 このことから本多の批判はむしろ内ゲバに近いのではないかという批判も少なくない。

 なお、本多は大江がノーベル文学賞を受賞した際にも「週刊金曜日」誌上で集中的に批判的に取り上げているし、大江が九条の会の呼びかけ人の一人になった時にも、エッセイ『貧困なる精神』で名指しこそしないものの会自体に疑問を投げかけている。

 [文学]大江健三郎をしつこく批判するジャーナリスト

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大江健三郎と批判というブログの情報公害


 このブログで大江健三郎に関する話題にテーマを絞っているのだが、今、手元に気まぐれで小林秀雄の『無常という事』の角川文庫版があって小林秀雄のことなどもちょっと情報を集めている。

 『無常という事』の角川文庫版で江藤淳と小林秀雄が対談しているのだが、現代のジャーナリズムはさなが芸術の敵とか文学の敵で情報公害という批判があってはっとさせられる。

 元々、作家や文芸評論家は一過的な情報とかジャーナリズムには批判的らしいのだ。

 情報公害というのは1970年代の公害問題が社会問題で先鋭化した時代にジャーナリズムが増えてきて情報化社会が大きくなって低俗な記事をマスメディアが書きたてることに対する批判で小林秀雄だけではなくて大江健三郎も結構、使っていたのではないか?とも思う。
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呉智英の大江健三郎への低劣な暴論を斬る!


 大江健三郎の『沖縄ノート』で保守右翼の言論の低劣さが露見しているとなれば人のふりみて我がふり直せ!ではあるまいか?

 極右の呉智英が大江健三郎の『沖縄ノート』で暴論というか幼稚な言葉の因縁をつけて悦に入っていて無教養をさらけだしている。

 私も昔から極右・呉智英の発言は評価できない発言が多く、エセ知識人とかエセ保守と思っていたが、ここまで呆れた発言を繰り返す評論家・呉智英の劣化にはもう、取り合いたくはない。

 【コラム・断】大江健三郎の“特権”

 大東亜戦争末期沖縄での集団自決の実態再検証に世論の関心が高まっている。大江健三郎
『沖縄ノート』(岩波新書)の真偽を巡って係争中の裁判の報道もあった。その中に、えっと思う
記述があったので『沖縄ノート』を読んでみた。

 第九章にこうある。

 沖縄住民に集団自決を強制した(と大江が断じている)元守備隊長は一九七〇年春、慰霊祭に
出席すべく沖縄に赴いた。それは「二十五年ぶりの屠殺(とさつ)者と生き残りの犠牲者の再会」で
あった。

 自決強制の有無の検証は私の任ではない。私が驚いたのは虐殺者(大江の見解での)を屠殺者に
なぞらえていることだ。

 これ、いつから解禁になったのか。虐殺を屠殺になぞらえようものなら許すべからざる差別表現として
 部落解放同盟と屠場労組の苛烈(かれつ)な糾弾が展開されたことは言論人なら誰知らぬ者はない。

 一九八二年、俳優座のブレヒト原作『屠殺場の聖ヨハンナ』は改題してもなお激しい糾弾に遭い
 上演は困難を極めた。これについて部落解放同盟などは「だれだれの作品だから差別はないと
 “神格化”したものの考え方を一掃したい」と言明した。

 また、一九八九年には『沖縄ノート』と同じ岩波新書の『報道写真家』(桑原史成)の中の「戦場という
異常な状況下では牛や豚など家畜の屠殺と同じような感覚になる」という記述が問題にされ、
回収処分となった。

 だが『沖縄ノート』は一度も糾弾されずに今も出版され続けている。大江健三郎に限ってなぜ糾弾から
免責されるのか。大江健三郎のみ“神格化”される理由は何か。かくも悪質な差別がなぜ
放置されているのか。知らなかったと言うのなら、それは許す。だが、今知ったはずだ。岩波書店、
部落解放同盟にはぜひ説明していただきたい。
 
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大江健三郎を国賊呼ばわりした谷沢永一の考察


 大江健三郎を国賊作家で反日活動に余念なしである!と激しく批判したのは評論家の谷沢永一である。

 保守派の大江健三郎批判で感情論であって大江健三郎が好きな人にいわせれば論議に値しない攻撃的なネトウヨのヘイトスピーチともいえるし、街宣右翼の国賊・大江健三郎に天誅を!とさほど変わらない暴言というか暴論として酷評もしてはいる。


 ところで最近谷沢永一氏の『こんな日本に誰がした 戦後民主主義の代表者 大江健三郎への告発状』(クレスト社)を読んだのだが、大江氏のエッセイや、 ノーベル文学賞受賞時の『あいまいな日本の私』などを引用しながら、大江氏の反日本的な考え方を徹底的に批判している。

 日本人が丸々1冊の本を個人の批判 のために書いたという例は他にもあるが、ノーベル賞受賞者をとことん批判したのは初めてではないか。

 大江健三郎は偉大な作家か

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