大江健三郎の『沖縄ノート』で保守右翼の言論の低劣さが露見しているとなれば人のふりみて我がふり直せ!ではあるまいか?

 極右の呉智英が大江健三郎の『沖縄ノート』で暴論というか幼稚な言葉の因縁をつけて悦に入っていて無教養をさらけだしている。

 私も昔から極右・呉智英の発言は評価できない発言が多く、エセ知識人とかエセ保守と思っていたが、ここまで呆れた発言を繰り返す評論家・呉智英の劣化にはもう、取り合いたくはない。

 【コラム・断】大江健三郎の“特権”

 大東亜戦争末期沖縄での集団自決の実態再検証に世論の関心が高まっている。大江健三郎
『沖縄ノート』(岩波新書)の真偽を巡って係争中の裁判の報道もあった。その中に、えっと思う
記述があったので『沖縄ノート』を読んでみた。

 第九章にこうある。

 沖縄住民に集団自決を強制した(と大江が断じている)元守備隊長は一九七〇年春、慰霊祭に
出席すべく沖縄に赴いた。それは「二十五年ぶりの屠殺(とさつ)者と生き残りの犠牲者の再会」で
あった。

 自決強制の有無の検証は私の任ではない。私が驚いたのは虐殺者(大江の見解での)を屠殺者に
なぞらえていることだ。

 これ、いつから解禁になったのか。虐殺を屠殺になぞらえようものなら許すべからざる差別表現として
 部落解放同盟と屠場労組の苛烈(かれつ)な糾弾が展開されたことは言論人なら誰知らぬ者はない。

 一九八二年、俳優座のブレヒト原作『屠殺場の聖ヨハンナ』は改題してもなお激しい糾弾に遭い
 上演は困難を極めた。これについて部落解放同盟などは「だれだれの作品だから差別はないと
 “神格化”したものの考え方を一掃したい」と言明した。

 また、一九八九年には『沖縄ノート』と同じ岩波新書の『報道写真家』(桑原史成)の中の「戦場という
異常な状況下では牛や豚など家畜の屠殺と同じような感覚になる」という記述が問題にされ、
回収処分となった。

 だが『沖縄ノート』は一度も糾弾されずに今も出版され続けている。大江健三郎に限ってなぜ糾弾から
免責されるのか。大江健三郎のみ“神格化”される理由は何か。かくも悪質な差別がなぜ
放置されているのか。知らなかったと言うのなら、それは許す。だが、今知ったはずだ。岩波書店、
部落解放同盟にはぜひ説明していただきたい。
 
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