ノーベル賞作家で日本で始めて受賞したのは川端康成である。
川端康成はガス自殺の悲劇で三島由紀夫の自決に衝撃を受けて手がつかなかった精神状態でもあったらしい。
同時代の文学の出来事となれば三島由紀夫の自決と川端康成の自殺というのは衝撃を受けた人は多かったように思う。
続きを読む
1968(昭和43)年にノーベル文学賞受賞以降は小説らしい小説をほとんど発表していなかった川端康成は、1970(昭和45)年の三島の自刃直後の現場を目の当たりにして以来、しばらく床に伏せるなどを繰り返していたが、それまで見られなかった言動をするようになり、1971(昭和46)年4月の東京都知事選では秦野章候補の応援弁士に立ち、美濃部都知事を激しく攻撃するなどもしていた。
1972(昭和47)年4月16日、川端は鎌倉の長谷の自宅に岡本かの子全集の推薦文を書きかけのままで外出、14:40、自宅から100メートルほどの海岸通からタクシーで1月7日に買ったばかりの逗子の小坪にあるマンションへと向かった。15:00には逗子マリーナクラブハウスに到着、4階の自室へと上がり、水割りを少し飲んだ後、17:30に布団をすっぽりかぶって、長さ1.5メートルのガス管をくわえ、18:00に絶命した。
22:05、マンションの警備員が川端の自殺を発見、マンション住民のガス臭いという苦情でマンション中を調べたが、その時には川端の部屋まで調べておらず、川端の長谷の家のお手伝いから連絡が入り、川端がマンションに在室かどうかを確認する際にわかったのだという。
玄関にドアチェーンがかかっていたが、ガス臭がしたためにチェーンを切断して川端が発見された。 川端は三島の自刃、都知事選の応援など以外でも10月に京都で予定していた日本ペンクラブ主催の日本学シンポジウムの準備に奔走、睡眠薬を多用して疲れきっている様子であったという。
川端康成自殺 1972(昭和47)年4月16日