大江健三郎が政治的な発言をするうえで重要な役割を担ったのが岩波の『世界』の編集者であった安江良介である。
進歩的文化人として大江健三郎も安江良介と一緒に仕事をしたことが自分の文学で創造的な仕事を進めることができて感謝したい、と今もいっているわけだから影響は計り知れない。
大江健三郎が『ヒロシマノート』や『沖縄ノート』を書けたのは岩波の名編集者だった安江良介がいたからだと本人が述べている以上、大江健三郎は安江良介とは相思相愛だったのだろう。続きを読む
ノーベル賞作家の大江健三郎を考えるブログ。自分なりに作家・大江健三郎を考えたことの考察というか研究ノート。
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二十歳の日本人「厳粛な綱渡り」( 文藝春秋刊・昭和四十年 )
北朝鮮に帰国した青年が金日成首相と握手している写真があった。
ぼくらは、いわゆる共産圏の青年対策の宣伝性にたいして小姑的な敏感さをもつが、それにしてもあの写真は感動的であり、ぼくはそこに希望にみちて自分およぴ自分の民族の未来にかかわった生きかたを始めようとしている青年をはっきり見た。
逆に、日本よりも徹底的に弱い条件で米軍駐留をよぎなくされている南朝鮮の青年が熱情をこめてこの北朝鮮送還阻止のデモをおこなっている写真もあった。
ぼくはこの青年たちの内部における希望の屈折のしめっぽさについてまた深い感慨をいだかずにはいられない。
北朝鮮の青年の未来と希望の純一さを、もっともうたがい、もっとも嘲笑するものらが、南朝鮮の希望にみちた青年たちだろう、ということはぼくに苦渋の味をあじあわせる。
日本の青年にとって現実は、南朝鮮の青年のそれのようには、うしろ向きに閉ざされていない。しかし日本の青年にとって未来は、北朝鮮の青年のそれのようにまっすぐ前向きに方向づけられているのでない。
「わがテレビ体験」( 「群像」昭和36年3月 )
結婚式をあげて深夜に戻ってきた、そしてテレビ装置をなにげなく気にとめた、スウィッチをいれる、画像があらわれる。
そして三十分後、ぼくは新婦をほうっておいて、感動のあまりに涙を流していた。
それは東山千栄子氏の主演する北鮮送還のものがたりだった、ある日ふいに老いた美しい朝鮮の婦人が白い朝鮮服にみをかためてしまう、そして息子の家族に自分だけ朝鮮にかえることを申し出る…。このときぼくは、ああ、なんと酷い話だ、と思ったり、自分には帰るべき朝鮮がない、なぜなら日本人だから、というよ うなとりとめないことを考えるうちに感情の平衡をうしなったのであった。
「あいまいな日本の私」( ノーベル賞記念講演(ストックホルム) )
広島、長崎の、人類がこうむった最初の核攻撃の死者たち、放射能障害を背負う生存者と二世たちが--それは日本人にとどまらず、朝鮮語を母国語とする多くの人びとをふくんでいますが-ー、われわれのモラルを問いかけているのでもありました。
売国奴列伝 大江健三郎 北朝鮮はバカどもにかつてどのように語られたか