大江健三郎の小説で最も読者が多いのは『個人的な体験』だろうと思う。

 息子の障がい者の大江光をモデルにした本人の体験を私小説的に書きたかった大江健三郎はあえて『個人的な体験』という小説の題名を用いたのだろう。

 大江健三郎の小説のタイトルのネーミングセンスの良さは際立っているのだが、『個人的な体験』という小説も大江健三郎の息子の大江光の体験から得た作家自身の大いなる教訓が含まれている。

 
鳥(バード)は、野鳥の鹿のようにも昂然と優雅に陳列棚におさまっている、立派なアフリカ地図を見お ろして、抑制した小さい嘆息をもらした。制服のブラウスからのぞく頸は腕に寒イボをたてた書 店員たちは、とくに鳥(バード)の嘆息に注意をはらいはしなかった。夕暮が深まり、地表をおおう大気か ら、死んだ巨人の体温のように、夏のはじめの熱気がすっかり脱落してしまったところだ。

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