永井荷風が文化勲章を受章した際に日本人の多くは辞退すると思っていたらしい。
戦前の永井荷風の日記文学では軍人批判や戦争批判も多く、反戦主義者でもあった永井荷風は天皇制を嫌っているのではないか?という話もあったし、墨田川界隈の被差別部落や在日朝鮮人の居住区に愛着も感じることが多かった永井荷風が文化勲章は自然と拒否するのはないか?と思っていたのだが、本人は受け取ってしまったという。
続きを読む
──「わたくしは老後に児孫のない事を以て、しみじみつくづく多幸であると思わねばならない」
戯作者に徹すると宣言して、「風教に害のある反社会的な小説」ばかり書いてきた永井荷風が、文化勲章をもらったと聞いて、首をひねる文壇関係者が多かっ た。伊藤整は、新聞に載っている文化勲章を首にぶら下げた永井荷風の写真を見て、「哄笑」を禁じ得なかったと云っている。伊藤整ばかりではない、多くの作 家も反骨精神の権化だった荷風だから、当然、文化勲章を辞退するものと思っていたのである。
しかし荷風が文化勲章をありがたく拝受したのは、純粋に合理的な理由からだった。勲章と一緒に国から与えられる年金が欲しかったのだ。戦後のインフレで所 有している株券も預金も紙くず同然になった上に、戦災で偏奇館を焼失して親戚や知人の家に間借りしていた永井荷風にとって、年金は今後の経済生活を保障し てくれる貴重な「財源」と感じられたのだ。
戦後になって荷風の作品が再評価され、原稿依頼が殺到し、印税も次々に流れ込んできたけれども、万事に用心深い彼は、これらに加えて更なる金銭的な保証を求めていたのである。
永井荷風のひとり暮らし(その3)